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大阪高等裁判所 昭和55年(う)332号 判決 1982年2月18日

主文

本件控訴を棄却する。

理由

<前略>

第五控訴趣意第四の一、原判示第二事実に関する、林武英を本件選挙運動の総括主宰者であると認定した原判決は事実を誤認している、との主張について

論旨は、林武英を総括主宰者と認定した原判決は、証拠の取捨選択ないし証拠の価値判断を誤つた結果事実を誤認したものである、というのである。

そこで所論にかんがみ記録を調査して検討すると、原判決が、(認定理由)第一の二の1で説示するところはおおむね正当であり、原判決が挙示する関係証拠により林武英が本件選挙の総括主宰者であつたことを認めるに足り、原判決に所論誤認のかどはない。以下所論にかんがみ右の点について補足する。

(一)  糸山英太郎の本件選挙への出馬の意向、糸山英太郎を育てる会結成の経緯、林武英の育てる会事務長就任について

原判決挙示の関係証拠によれば、以下の事実が認められる。すなわち、糸山英太郎は、かねて政界進出の志を抱いており、遅くとも昭和四八年春ごろには、周囲の者に本件選挙に出馬の意向をもらしていたところ、糸山の意向を知つた同人を社長とする糸山三社(新日本開発株式会社、新日本企画株式会社、新日本産業株式会社)の役員の中で、糸山の母方の叔父嶋嵜秀男、及び妹婿糸山武生が中心となつて糸山英太郎の後援組織「さきがけ会」を結成し、新日本観光グループ(糸山の実父佐々木真太郎を社長とする新日本観光興業株式会社及び糸山三社を含む右新日本観光興業の子会社)の社員、出入業者らを対象に会員募集を始めるとともに、一般有権者に糸山の知名度を高めるため、各地に社員を派遣し、糸山の講演会の売り込み及びその準備、段取り等にあたらせ、同年六月ごろ糸山の本件選挙出馬の話が具体化するにともない、糸山三社の幹部役員の集まりである糸山会を中心に、一般有権者を対象にした本格的な後援会結成の必要性が話合われ、同年六月二八日には新日本観光グループの社員を集め後援会活動及び組織作りについての研修会を開き、参議院議員今東光の後援会東光会の事務局長で、先に「さきがけ会」結成の前にも後援会についての講義を行つた林武英を講師に招き、本件選挙に焦点を合わせた後援会の組織作り、活動方法等についての講義を受けた。当時後援会の組織作りを中心になつて推進する事務長適任者を物色していた糸山英太郎は、同年六月二八日の林の講義をきいて満足し、従兄弟の新日本企画の専務取締役飯塚益弘に対し、林を糸山後援会の組織作り、活動を推進する責任者として迎えるべく、「当りをつける」よう指示し、これを受けた飯塚は、河合靖之を通じて交渉を重ね、最終的には佐々木真太郎、笹川了平の両名が今東光を訪ねてその了解をとり、今東光立合いのもとに林に糸山英太郎の後援会事務長就任方を要請し、同年七月ごろ同人から受諾の回答を得た。なお、飯塚と河合の下交渉に際しては、林に対する当面の待遇のほか、河合から糸山当選の暁には林に相当額の成功報酬が支払われるべき旨の要求があり、この要求はそのころ飯塚から糸山に伝えられている。かくして「さきがけ会」は発展的に解消し、一般有権者を対象とする後援会「糸山英太郎を育てる会」が結成され、同年九月一日林がその事務長に就任した。右就任に際しては佐々木真太郎が新日本観光グループの社員を集めて自ら林を紹介し、林への協力を指示し、糸山本人は同年九月の全国場長会議の席上出席社員に本件選挙への出馬の意向を正式に表明した。以上の経緯、諸事情に徴すれば、育てる会結成の目的は、もつぱら本件選挙において糸山を当選させることにあり、その目的を実現するため、育てる会の組織作り、活動推進の最高責任者として林が育てる会の事務長に迎えられたものであることは明白である。関係者の多くが、原審において、育てる会結成当時糸山に本件選挙出馬の意向があつたことを否定する証言をしているが、これらの証言は、その後の育てる会の活動状況に照らしても極めて不自然であつて到底信用できず、育てる会設立の経緯、その後の活動状況に照らし、育てる会そのものが、本件選挙における糸山の当選を目指して結成され、その目的実現のため諸種の活動を行つたものであることは否定すべくもない。

(二)  育てる会における林武英の活動状況について

原判決挙示の関係証拠によれば、以下の事実が認められる。すなわち、育てる会の事務長に就任した林は、まず育てる会活動の基本方針、運動計画の基本構想を策定するとともに、これに必要な予算案を作成して糸山に提示し、新日本観光グループ、中でも糸山三社の社員、役員を中心に育てる会の本部機構を順次整備充実させ、社員等で足りないところは、若干のスタッフを雇入れ、社員外のスタッフについては自らその職務分担を指定し、社員については、飯塚らに機構図を示してその指定をさせ、地方組織については、従前主として糸山講演会の売込み、準備のため各地に派遣されていた社員を育てる会のオルグ(各地区担当員)として取込み、新日本観光グループの全国場長会議、関東場長会議などの機会をとらえて自ら策定した基本方針、運動計画等を説明し、会員獲得並びに得票の目標を示して活動の方法を具体的に指示し、本格的に地方組織作り、会員獲得活動にあたらせ、その際各地区担当者が勝手に各地の地元責任者を決めることを戒め、決める前に林に引き会わせるよう指示し、各担当員ともこれに従つて各地区で折衝内定した地元責任者を林に引き会わせてその了承を得た。また、林は、各地区担当者から報告をきくなどして各地区の情勢、活動状況の把握に努め、組織作りの遅れている地区には社員でない林直属のオルグを派遣し、あるいは会員募集の遅れている地区担当者を督励し、自ら各地を往訪し、各種会合に出席して育てる会事務長として挨拶し、各地自民党県連に挨拶に回り、宗教団体その他の支援団体に対しても、本部担当者を決めて接触に努めるほか、各地区担当者にも支援団体名、所在地等を徹底知得させ、各地区において日常よく接触に努め、支持、協力を要請するよう指示し、各地区担当者もこれに応じて各支援団体を訪ねて育てる会への入会勧誘、講演会、決起大会等に際しての動員、ボスターの掲示等に協力を求めた。さらに、林は、資金面でも各県活動資金の枠を決め、支出を決裁し、糸山、佐々木真太郎、笹川了平らに資金の調達の要請をするなどの活動をした。

まず、所論は、林は事務長就任後間もなく、社員の反感不信をかい、糸山会が事実上林の権限を奪つて実権を握り、林の「事務長」は名目だけのものとなつたというが、所論に沿う関係者の原審証言は、その内容がはなはだあいまい、かつ不自然であるうえ、その後の林の活動状況にもそぐわず、飯塚益弘、林誠一、小林秀男ら関係者の多くが一致して昭和四八年一一月から一二月ごろには糸山会が実権を握つたと証言するところ、同年一二月から育てる会に入り会計を担当するようになつた大橋萬輔は、原審公判において、昭和四九年三月までは林の指示で資金の支出をし、林を事務長として立てるように小林からも指示されていた旨証言しており、大橋の会計就任の時期から考えて、大橋だけが時期について誤つた証言をしたものとは考えられず、飯塚らの右証言は作為的であつて信用できない。林と一部社員との間に摩擦が生じ、円滑を欠く事態があつたことは否定できないが、飯塚の原審証言によれば、飯塚と小林が笹川了平に、林と社員との間の調整を依頼していること、大橋、河合の各原審証言、林武英の検察官調書(謄本)によれば、林武英と衝突した新日本産業株式会社取締役総務部長で育てる会の総務、会計を担当していた林誠一が林武英の要請で配置換えにより本社から転出させられていること、加えて、佐々木真太郎の原審証言、林武英の検察官調書(謄本)によれば、林は、もともと育てる会推進の必要から、佐々木真太郎、笹川了平が三顧の礼をもつて要請し、月給四〇万円、東京宿舎、秘書、専用車付という破格の待遇で迎えた事務長であつたことが認められることを考えれば、糸山会がたやすく林の実権を奪い、いわば飼い殺しのような状態においたとは到底考えられず、所論に沿う前記飯塚らの各証言は信用できない。

次に、所論は、育てる会の資金は全て会社の金であるから、その最終支出権限は会社幹部にあり、林にその権限はなかつたという。なるほど育てる会の資金はそのほとんどがいわば会社の金ともいえるものではあるが、その会社の金を使つて行う後援会活動の最高責任者として迎えられた林に資金支出権限を与えない理由はなく、会社外から来た部外者に対する猜疑心や、林が連れてきたスタッフに対する不審から、林誠一のあと会計係に就任した大橋を会社幹部が監督指揮し、浪費や不正が行われないよう監視しようとしたことはうかがわれるが、林が最後まで各県に対する資金の支出枠を定め、一般の支出についても決裁権限を有していたことは嶋嵜の原審証言(第八八回公判)、原審証人高松睦夫の証言(昭和五三年七月二〇日分)からも明らかであり、林が資金状況の細部まで把握しておらず、また支出決裁の手続が必ずしも当初林が定めたとおり行われなかつた点があるとしても、資金支出の権限は会社幹部にあり、林にはなかつたとの飯塚、小林、大橋らの原審証言は到底信用できない。

また、所論は、大橋が会計係に就任後、飯塚、小林の指示により、林に資金状況を隠すため、従前の東海銀行三田支店糸山英太郎を育てる会林誾名義口座とは別に、第一勧業銀行芝支店に大橋萬輔名義の別口口座を開設した、といい、大橋、飯塚、小林、嶋嵜らは所論に沿う証言をしているが、大橋の原審証言(一二九回公判)によれば、第一勧業銀行芝支店に大橋名義の別口口座を設けたのは昭和四九年二月一五日であると認められるところ、同人の昭和四九年八月五日付検察官調書(謄本)によれば、同年四月一〇日入金になつた一億八、二〇〇万円のうち会社に返済した六、二〇〇万円を差引いた一億二、二〇〇万円は東海銀行三田支店の林名義の口座に入金されていること、大橋の原審証言(第一三一回公判)によれば、大橋は両口座の出納をまとめて一つの出納帳に記載し、林の宿舎費は大橋名義の別口口座の方から支出されていることが認められ、また別口口座を設けて小口の資金を隠すことはできても、後に認定するとおり、大口の資金については、林もその調達に関与しているからこれを隠すことはできないことなどの事実に徴し、所論に沿う大橋らの右証言は信用できない。

さらに、所論は、林は資金の調達、配分に関与していない、というが、当初の三億円も林の予算案に基づいて導入されたものであり、これを東西で折半して使うことは、昭和四八年一〇月ごろ林も同席する場で糸山が指示したことであり、東日本分について林が各県への資金支出枠を決定したことは、加藤(公判期日外)、飯塚(第三八回公判)、林誠一(第三六回公判)らの原審各証言によつても認められるところである。また、大橋(第三四回公判)、飯塚(第三八回公判)の原審各証言によれば、昭和四九年四月一〇日入金になつた一億八、二〇〇万円は、林が飯塚、大橋らと共に再三糸山に調達を要請し、糸山が調達を約束していた二億円の内金であると認められる。所論は、右一億八、二〇〇万円の配分に関し、この資金の入金を林が知つたのは同年四月一六日であつて、同月一〇日に一億八、二〇〇万円が入金になることを林は事前に知らず、しかもそのうち六、〇〇〇万円は直ちに会社に返済され、現実に育てる会の資金として入金になつたのは一億二、〇〇〇万円であるから、事前に大橋に資金配分表を渡しておいたとの林の検察官に対する昭和四九年九月六日付供述調書(謄本)の記載は、あり得ない事実の記載で信用できない、というが、前認定事実に照らして所論は到底採り得ない。また、原判決挙示の関係証拠によれば、同年六月一二日入金になつた最後の二億円も林が資料を作成提示し、糸山及び佐々木真太郎に追加調達を要請して得られたものであり、その配分も林が行つていたことが認められる。もともと林武英の検察官調書によれば、「金のことで迷惑をかけない」というのが、林の事務長就任の条件の一つであつたことが認められるから林としては、資金の必要性を説明して調達を要請すれば足りる立場であり、現実にその資金を調達する責任は林を招聘した糸山あるいは佐々木真太郎らの側にあるのであつて、林が自分の力で他から資金を調達することがほとんどなかつたことは、林の総括主宰者性を認定するについて何ら妨げとなるものではない。

(三)  選挙運動における林の活動状況

原判決挙示の関係証拠によれば、以下の事実が認められる。すなわち、林は、育てる会の事務長に就任後、「選挙体制に移行できる体制作り」を一つの柱として育てる会の活動を推進し、まず昭和四八年九月自由民主党に本件選挙における糸山の公認を申請し、間もなく同党から公認予定の意向をきいたが、糸山のテレビ出演との関係で、党役員と折衝して公認発表の時期を調整し、公示に備えて選挙事務所の開設日程案、遊説日程案、ポスター、選挙用はがきの割振り等を含む詳細な選挙運動実施計画書を作成し、昭和四九年五月九日西日本会議、同月一六日全国代表者会議、同年六月七日九州遊説会議等を開催して各地運動員にこれを配布説明し、各地区の得票目標を示し、ポスター、選挙用はがきの利用方法、支援団体との連絡、遊説隊の編成その他選挙運動の方法について具体的に指示し、法定費用の各地区配分額を決め、ポスター、公報等選挙用文書の作成を指揮し、遊説隊責任者を指名して遊説日程の調整指揮にあたらせ、東京事務所の責任者を選定依頼し、ポスターの掲示責任者として笹川良一に就任を交渉し、出納責任者を決定し、立候補届書の作成届出を指揮するなどして選挙運動の準備万端を指揮し、公示後は、東京事務所前における候補者糸山の第一声に先立ち集まつた聴衆に対し、「糸山英太郎の選挙をお預りする者」として挨拶し、千葉、金沢の事務所開き、東京都内の街頭演説などに際しても、自ら事務長として応援演説をし、糸山と共に神奈川、静岡の事務所開き、浜松の個人演説会などに出席し、あるいは党有力者に面談し、その遊説に際しできるだけ糸山の名をあげてもらうよう要請、依頼し、また党総裁が遊説中糸山に不利な発言をしたとして直ちに党本部に出向き、事務所にあつては各地の情勢把握に努め、各地からの問合わせ、苦情、相談に応じ、各地の情勢に対応して適宜督励指示の電報を打ち、「糸山英太郎事務長林誾」名義の「終盤戦諸対策について」という文書を作成配布して各地運動員に対し、終盤における選挙運動について具体的かつ詳細な指示を与えた。

まず、所論は、糸山の岳父の兄笹川良一が本件選挙の総括主宰者である、という。なるほど、関係証拠によれば、本件選挙で糸山を支援した団体の中には笹川良一との関係から糸山支援を決めた団体が多く、また各地区責任者も笹川良一との人脈につながる者が少なくないし、さらには同人の糸山に対する影響力を考えれば、笹川良一の本件選挙における潜在的な力には軽視し難いものがあつたことを否定できないが、こと選挙運動に関していえば、同人は公示後連日のように東京事務所に顔を出してはいたものの、東京事務所の責任者永井幹に何をすべきかをきき、その要請に従つて関係者関係団体等に電話で支持支援を要請していたことがうかがえる程度で、本件選挙実務についてこれを総括主宰していたものとは到底いえない。

次に、所論は、糸山の実父佐々木真太郎こそ育てる会の最高責任者であつた、ともいうが、前認定の諸事実に徴すれば、同人が育てる会の最も重要なオーナーの一人であつたことは優に認められるが、育てる会の活動を具体的に総括、指揮した事実は認められず、もとより同人が本件選挙運動を総括主宰したものと判断し得るに足る事実は認められない。

以上認定の経緯、諸事情を総合すれば、林武英こそ本件選挙に際し糸山のための選挙運動を総括主宰したものということができ、この点に関する原判決の認定は正当であつて、所論事実誤認のかどはない。論旨は理由がない。

第六控訴趣意第四の二、原判示第二に関する、被告人を西日本地域における本件選挙運動を主宰したものと認定した原判決は事実を誤認している、との主張について

論旨は、被告人は本件選挙運動について林武英から西日本地域の選挙運動を主宰すべきものと定められたことはなく、同地域における選挙運動を主宰した事実もない。原判決の認定は証拠の取捨選択ないし証拠の判断を誤つた結果事実を誤認したものである、というのである。

そこで所論にかんがみ記録を調査すると、林武英から被告人に対し、西日本地域における選挙運動を主宰すべき旨明示的指定行為がなされたことを認むべき証拠はない。しかし、被告人が育てる会並びに本件選挙運動に関与するに至つた経緯、その活動状況、西日本地域における選挙運動に果たした役割、総括主宰者林武英との関係等を総合的に考察すれば、被告人は、東日本と西日本の二つの地域に分けて行われた糸山の本件選挙運動のうち、西日本地域における選挙運動について、総括主宰者たる林と意を通じ、被告人が主宰する旨互いにその地位役割を了解し、これに従つて行動したことが認められ、被告人を総括主宰者から定められた西日本地域の地域主宰者に該るとした原判決の認定判断は正当である。以下右の点について順次考察する。

原審において取調べられた証拠によれば、以下の諸事実が認められる。

(一)  被告人が育てる会に関与するに至つたいきさつについて

被告人は、政治家を志して大学を中退し、自由民主党に入党、同党政治大学院の課程を終了後本件選挙まで約一七年間政治団体の職員などをしながら、その間に行われた衆議院議員選挙、参議院議員選挙において、遊説責任者、総務企画関係責任者、選挙参謀などの立場で幾多の選挙運動を経験し、昭和四六年の参議院議員選挙では、全国区から立候補当選した村上孝太郎の選挙運動の近畿地区責任者を勤め、同人当選後村上孝太郎事務所にあつて同人の政治活動を補佐していたが、間もなく同人が死亡したため、その後、村上の選挙運動に際して面識を得た笹川了平に招かれ、昭和四七年春ごろから、右了平が社主をする大阪日日新聞社の理事となり、同紙の政治記事を書いたり、了平の秘書的な仕事をしながら自ら国政選挙に立候補する機会を待つていた。その間了平からその娘婿である糸山英太郎を紹介され、同人に関西の経済団体を紹介したり、同人と政治情勢についての意見を交換し、また同人の主宰する政治団体新日本政経育成会の構成員とも知り合うようになつた。昭和四八年七月ごろ糸山本人から本件選挙に全国区から立候補するについて西日本における選挙運動に協力を要請されたが、その時は糸山の立候補そのものに反対して協力の約束はしなかつた。そのころ先述のとおり、新日本観光グループ特に糸山三社の役員、幹部社員を中心に、昭和四九年六月若しくは七月に予定されていた本件参議院議員選挙を目指して糸山の後援組織作りがすすめられ、さきがけ会、次いで育てる会が結成され、育てる会は昭和四八年七月一九日政治資金規制法に基づく結社届がなされたのであるが、この後援会結成準備の過程で被告人も嶋嵜らに頼まれて同年五月ごろには東京の新日本観光興業で行われた新日本観光グループの場長クラスを集めた会合において後援会についての話をしたり、糸山の講演会の売り込み及びその準備、育てる会々員募集等のための社員の地方派遣にあたつて地方の政治情勢等について参考意見を述べ、あるいはさきがけ会のパンフレットを作成するについてその文案について意見を述べたりしていた。新日本観光グループでは、糸山の立候補準備のため、その知名度を高めることを主たる目的に、東日本では昭和四八年春ごろから、西日本では育てる会結成の前後ごろから、社員を各地に派遣していたが、新日本観光グループの営業活動が、大きく分けて東京を中心とする東日本と、大阪を中心とする西日本とに分かれていた関係から、東日本には主として東京に本社のある新日本産業、新日本企画の社員が、西日本には大阪に本社のある新日本開発の社員がそれぞれ派遣され、東京、大阪を拠点に活動をすすめていた。ところが、社内に後援会活動、選挙運動を指導できる者がなく、前述のとおり、林武英を育てる会の事務長に迎えることにより東日本における活動の中心であつた東京では直接その指導を受けることができるようになつたが、西日本における活動の中心となる大阪においても、後援会活動、選挙運動を効率的に推進するため、日常身近に専門家の指導を仰ぐ必要があり、同年八月ごろから嶋嵜が被告人に依頼して西日本各地派遣担当社員の連絡会議に出席を求め、その助言指導を受け、同年九月ごろ笹川了平及び嶋嵜から被告人に正式に育てる会西日本本部の組織作り及びその活動についての指導、協力の依頼がなされた。当時被告人は、この要請に乗り気ではなかつたが、将来自ら国政選挙に立候補する場合には、了平あるいは糸山の援助を受けたい、少なくとも同人らを敵にまわしたくないと考えていたこと、現に了平の庇護を受け、糸山の主宰する新日本政経育成会から盆暮に調査研究費名目で資金援助を受けていたことなどから断り切れず、同年一〇月ごろからは二日に一度位の割で新日本開発本社内におかれた育てる会西日本本部に出て、随時同社役員や幹部社員あるいは育てる会活動に関与担当している社員に後援会活動ないし選挙運動について種々助言、指導、教示し、各地派遣社員を集めて開かれる担当者会議に出席してその活動を指導するなどするうち、次第に育てる会活動に没頭するようになつた。

(二)  公示前の被告人の活動状況について

被告人の育てる会西日本本部における社員らに対する指導は、単に一般的な知識を教示するにとどまらず、状況に応じて、各地世話人会、決起大会等育てる会の各種会合の開催時期、方法、資金等について具体的に指導ないし指示し、各県別に得票目標を示して各地担当員に活動を督励し、支援団体名を示して充分接触を続け支援を要請するよう指示し、あるいは育てる会活動、選挙運動に協力を申出る地元有力者があつても、人物がはつきりしない場合には、被告人に連絡すべき旨指示するなど活動を具体的に指示、指導するとともに、自らも育てる会の各地結成準備会、世話人会、選対会議あるいは自由民主党県連青年部大会等各種会合に出席し、糸山の代理もしくは育てる会西日本本部責任者等として挨拶を行い、各地有力者への協力依頼、情勢把握等のため各地に出張し、必要に応じて地元責任者と活動資金等について折衝し、各地地元責任者を招集して西日本連絡会議を開催し、林武英の要請を受け票読みの結果を林に報告するなど対外的にも育てる会西日本本部の活動を中心になつて推進するものとして行動していた。もつとも、西日本各地における育てる会の組織作りをするについて、その中核となるべき地元責任者は、そのほとんどが笹川了平もしくは笹川良一の人脈につながる者であり、被告人が自ら就任の交渉をしたといえるのは島根県の持田勉など極く一部にすぎず、また西日本各地に派遣された各地区担当員(連絡員)も全て新日本観光グループの社員(但し熊本県は社員でなく、東京本部のオルグ)であり、被告人はその人選に関与していなかつたことは所論のとおりであるが、問題はこれらの者の活動を被告人が掌握指揮していたかにあるのであつて、その選任のいきさつは地域主宰者性認定の妨げとなるものではない。

(三)  資金の調達支出について

被告人は、昭和四八年一一月ごろ嶋嵜から育てる会西日本本部に配分される資金が一億五、〇〇〇万円であるときかされ、それでは到底不充分であると考えたが、とにかくこれで資金の配分計画をたててもらいたいとの嶋嵜の要望に基づき、林から示されていた基本計画を実現するには到底足りないのでこれを修正し、ただいずれにしても追加資金が必要と考え、一億五、九〇〇万円の各地配分計画をたて、各地の資金枠を各地区担当員に内示し、あるいは地元責任者と折衝し、各地区活動の進行状況に即して順次これを配分したが、糸山本人や林武英が被告人の頭越しに地元責任者に資金の約束をしたり、糸山の妹婿糸山武生が兵庫県で勝手に地元責任者とはかつて活動計画をたて強引に資金を持ち出したり、各地区とも大会等の費用が当初の予算どおり押え切れなかつたこと、あるいは当初新日本開発で負担することになつていた西日本本部の経費の一部が育てる会の負担となつたことなどから、昭和四九年三月末で右資金は底をつく状況になつた。被告人としては、早晩資金が底をつくことは早くから分つており、同年一月末糸山本人と会つた時「一億五、〇〇〇万円で最後までやれというのか」と暗に追加資金を要求し、同年二月ごろからは嶋嵜、笹川了平らに追加資金の調達を要請し、同月二六日上京に際し林武英と会い、同人の資金計画をたずねるとともに追加資金の調達促進を要望した。さらに、被告人は、同年三月下旬には、各県別の支出を整理し、前記被告人の計画を無視した資金約束のことなど資金不足に至つた理由と今後必要資金額を記載した説明書を作成して笹川了平、林に提出説明して追加資金の早期調達を要請した。同年四月から五月にかけて了平から合計八、二〇〇万円の資金が西日本本部に入つたが、これは被告人が必要に迫られその都度嶋嵜を通じて了平に要求して調達されたものであり、同年五月二〇日ごろ了平からの資金は終わりであるときかされ、西日本本部費用を含め各地未払金等を調達のうえ再び今後必要資金一億二、〇〇〇万円を計上し、これを了平に提出してその調達要求を佐々木真太郎に伝達するよう依頼し、自ら真太郎に会つて説明してもよい旨申出たが、了平がその必要はないと答えたのでこれを了平にまかせた。以上の経緯から被告人は、同年五月二八日ごろ真太郎拠出の六、九〇〇万円の入金を得、うち新日本開発等からの借入れ金の返済及び西日本本部費用を除いた約四、〇〇〇万円を自らの配分表に基づいて各地に配分したが、なお各地からの要求もあり、またそのころ入手した林武英作成の資金配分表により、東日本については、更に各地に資金を配分する計画があり、近く新日本観光から資金が入る予定であることを知り、嶋嵜を督励して東京本部に資金の配分を要求し、その結果後述のとおり同年六月一二日法定費用分を含めて五、〇〇〇万円の配分を受け、これについてもその大部分を自らの判断により各地に配分支出した。もつとも、西日本本部における資金の支出について、被告人は、本部費用の個々の支出について決裁をしておらず、また大阪府関係の支出については、大阪府本部の事務長前田清に具体的活動をまかせていた関係もあつて大阪府本部の資金枠を決めるにとどめ、個々の支出について決裁していないが、各地に対する資金の配分支出はもつぱら被告人が自らの判断でこれを行つており、前述の、糸山武生の強引な資金持ち出しも、被告人と無関係に行われたものではなく、了平の意向もあつて不承不承ながら被告人も了解したうえでのことであり、また嶋嵜が了平から直接資金を調達し、あるいは若干の育てる会資金を被告人に無断で支出していたが、これも全体から見れば例外といつてよく、被告人が西日本本部の資金の調達支出をおおむね掌握していたと認めるに妨げとなるものでない。

(四)  林武英との関係について

林武英は、育てる会事務長として活動を始めた当初から、従前東京の育てる会活動を中心となつて進めていた林誠一や飯塚益弘らも、西日本における活動状況、各地派遣社員等について把握しておらず、中京以西が東京を中心とする東日本とはある程度独立して活動をすすめていることを知つており、中京以西は大阪の被告人か名古屋の加藤元紹にまかせるほかはないとは感じていたが、東西の活動を厳密に分ける考えはなく、むしろ西日本についても林において直接指揮をとり、全国を統括したいと考え、活動が遅れているとみた三重県、あるいは自民党県連青年部から協力申出のあつた高知県に直属のオルグ高松睦夫を派遣して組織作りにあたらせ、また昭和四九年二月五日には上阪して笹川了平と面談し、西日本についても直接指揮するようにしたい旨申出て被告人の処遇について相談したが、了平から「被告人がずつと西日本の責任者としてやつており、今更林が直接指揮をとればかえつて混乱する」などと説得され、また逆に被告人からも、三重、高知の高松睦夫、熊本の岩永米人ら林の輩下が西日本に介入していることについて抗議され、「今後資金の取決めは林の輩下がすることはせず、被告人とよく連絡する」旨約束させられ、同月二六日被告人が上京した際相互の権限について話合つた結果、被告人に西日本各地における事務所の設置、運動員の人選、運動の具体的指導をまかせることを約した。所論は、林武英の手帳(昭和五五年押第一二四号の符号一〇号)には、二月五日に被告人と会つて謝罪したことの記載がなく、同月二六日の欄にも「近松氏上京」とあるのみで、相互の権限について協議がなされた旨の記載がなく、また林作成の同年三月一〇日付選挙運動実施計画要項(同押号の符号六号中)に「東、中、西一本化」の構想が書かれているから、二月二六日の段階でそのような協議はあり得ない、というが、林の手帳の二月五日欄の記載はその内容からみて、了平との会談で協議すべき予定事項であり、前認定に沿う林の検察官調書と符号する記載もあり、林が二月五日被告人に今後西日本地区において林もしくは直属のオルグが勝手に資金の取り決めをすることはしない旨約束したことは被告人も原審公判廷で認めるところであり、手帳の二月二六日欄には「近松氏来京」との記載に引きつづいて「林の行動半径として(一)事務所内部、(二)東中西間、(三)……」とこれまた前認定に符号する記載がある。そうしてみると、所論証六号の選挙運動実施要項案の記載は、より一層緊密な連絡と林の構想指示が全国末端組織まで充分浸透するようにしなければならないことをうたつたものとみられ、西日本本部、地域主宰者の存在を否定するものとは考えられず、前認定と矛盾するものではない。現に、その後、従前林直属のオルグによつて地元責任者との下話が進められていた高知、沖縄、鹿児島などの地区についても全て西日本本部に引きつがれ、資金その他の活動について西日本本部との間で具体的な交渉が行われた。もつとも、熊本県だけは、地元責任者を見つけて依頼した東京本部のオルグ岩永米人が公示前は最後まで連絡を担当し、熊本の地元責任者からの連絡も全て東京本部宛になされたが、資金については、昭和四九年三月以後熊本も西日本の一部として西日本本部が負担し、同年六月七日福岡で開かれたブロック会議に参加し、法定費用及び選挙用ポスター、証紙も福岡経由で西日本本部から配布を受け、後述のとおり公示後資金を被告人から受けとり、更に追加資金を西日本本部の被告人に要求し、公示後の運動は、西日本本部の指揮下にとり込まれた。また、林武英は、被告人が同年三月四日大阪に召集した西日本責任者会議において、「具体的なことは被告人とよく相談し、被告人を中心に運動をすすめてもらいたい」旨、更に、同年五月一六日自ら東京に召集した全国代表者会議においても、「西日本については引き続き被告人に責任者になつてもらうので、詳細は被告人とよく相談し、西日本本部と連絡を密にして活動をすすめられたい」旨指示し、公示後被告人を西日本地域における選挙運動を主宰すべきものと定める意思を表明していた。

(五)  被告人の辞意表明とその後の活動について

被告人は、後援会活動、選挙運動の進め方について、かねて林武英と考えを異にしていたところ、昭和四九年五月一六日林が東京に召集した全国代表者会議において林らが被告人を西日本地区の責任者に相応しい処遇をしなかつたことや席の配置など会議の設営並びに佐々木真太郎の挨拶及び会社幹部の態度が各地から集まつた地元責任者を軽視した非常識なものと感じて強く不満を抱き、会議への出席を拒否し、帰阪後同月一八日後援会活動及び選挙運動について西日本地区の責任者の立場から身を引く旨の手紙を作成し、広く関係者に配布送達したが、笹川了平に強く翻意を説得され、ここで放棄しては、糸山の選挙運動を妨害したとの非難を免れず、了平の疵護を失ない将来自ら政界に出る時不利益を受けること必至であることを思い、忍び難きを忍ぶ心境で辞意を撤回し、一方林の方も被告人の手紙を受け取つた後も被告人の地位を変える考えはなく、同月二一日謝罪のため来阪して被告人に面談を申入れ、被告人にこれを拒否されるや、了平に被告人の取りなしを依頼した。この点に関し、被告人は、原審公判廷において、了平の半ば脅迫的説得により育てる会にとどまることにしたが、それは育てる会の残務整理に限つてのことで、選挙運動をする考えはなく、そのことは了平にも表明しておいたと弁明するが、同月二一、二二の両日兵庫県下四か所において開催された糸山英太郎を囲む会に出席していること、同月二九日西日本各地派遣社員を集めて担当者会議を開き、各地担当者に資金を配分するとともに、選挙運動についての注意、心得を説いていること、同年六月八日兵庫県の選対会議に出席していること、同月一〇日東京本部の遊説責任者岩永米人の求めにより大阪に西日本遊説担当者会議を召集していること、同月一三日大阪選対出陣式に出席し、運動員を前に「全ては皆の力、私は働き易い環境を作るだけ、過去六か月それでやつてきたし、あと一か月もそのつもり、選挙は運動員の情熱で決まる」と挨拶していること、被告人が各地の意見をいれて作成した移動事務所計画改訂版の補正並びに公示後の西日本地区移動事務所との連絡調整を西日本本部の新日本開発社員北村明善に指示していること、公示後福岡の様子がおかしいとの情報をきき、直ちに状況把握のため福岡に行き、福岡の地元責任者笹渕二郎に会い、福岡、佐賀の資金二八〇万円を渡していること、同月二〇日ごろ、糸山を支援していた自民党高知県連青年部の同青年部長広田勝に対し陣中見舞名目で三〇万円を供与した事実が認められることに徴し、前記被告人の原審公判における弁解は到底信用できない。

(六)  公示後の活動について

公示後、被告人は右(五)において述べたことのほか、毎日西日本本部に出て職員を指揮し、遊説計画、移動事務所計画推進の連絡調整にあたらせ、随時各地と電話連絡をとつて情勢把握に努め、沖縄にあつた本来東日本分であつた移動事務所用の標札を大阪に送るよう指示し、東京本部と交渉して引続きこれを西日本で使用することとし、島根県の地元責任者が担当社員との円滑さを欠き、運動をしていないことを知り、直ちに責任者を大阪に呼び、事情を聴取したうえ要求の資金を渡し、あらためて選挙運動を依頼し、担当社員には島根を離れて鳥取での運動に専念するよう指示するなどの活動をした。

以上の事実を総合すれば、被告人は総括主宰者林武英と意を通じ、暗黙裡に同人によつて定められた者として西日本地域における公示後の選挙運動を主宰したものと認めるに足る。

なるほど、前認定のように、選挙運動については、林が細かい指示をしているが、それらはいずれも全国に共通する一般的なこと、ないしは大綱的なことであり、また遊説計画、移動事務所計画については事前に地元の要望、少なくとも西日本本部の意見を充分聴いたうえで作成すべきものではあろうが、計画案作成後には再三会議を開いて地元の意見をきき、大綱を崩さない限り、西日本本部が修正することを認めている。法定費用についても、もし被告人が西日本地域の主宰者であれば、西日本分の枠を示して配分すれば足り、林が西日本各地の配分額を決める必要はないとの所論も強ち首肯し得ないではないが、東日本を含めた全国各県のバランス、公平さを示す意味では全く無用のことともいえず、法定費用の配分は観念的には重要なことではあるが、法定費用の額が選挙管理委員会への届出のための形式にすぎなかつた本件選挙運動の実情からして、ほとんど実際的意味をもたないと考えられるから、仮に被告人がこの配分額の決定を行つていないとしても、それは、被告人の地域主宰者認定の妨げとならない。本件選挙において法定費用が形式だけのものであつたことは、法定費用配分に際して渡された法定費用報告書のひな型「勘定科目一覧表」(昭和五五年押第一二四号の符号一三六号)に「人件費」として「アルバイトのみ、事務所職員は総本部一括処理」とあることの一事からも明らかである。また所論は、移動事務所計画について被告人の改訂案は実施されず、結局実施されたのは北村案であるというが、北村案とは被告人改訂案作成後一部地区から移動事務所返上の申出があつたことに伴ない被告人案に若干の補正をし、被告人の指示によつて実施されたのである。

そうしてみると、原判決が被告人を本件選挙に際し糸山のための選挙運動の西日本地域の地域主宰者と認定したのは正当であつて、所論事実誤認のかどはない。論旨は理由がない。<以下、省略>

(吉川寛吾 右川亮平 西田元彦)

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